過去、推測のみされていた北朝鮮のベトナム戦参戦の事実は、ハノイから東北に60km離れたbac giang地方において、北朝鮮軍の戦死者慰霊塔と14体の遺体が葬られた墓地が連合ニュースにより確認されたことにより、初めて立証された。
それまで、ベトナムにあるベトナム戦参戦外国軍墓地としては、ホーチミン市付近にある豪州軍墓地のみが唯一知られていた。
一方、連合ニュースと共に、北朝鮮のベトナム戦参戦の事実を公式確認したベトナム駐在韓国大使館は、「今まで、推測のみされていた北朝鮮のベトナム戦参戦が、慰霊塔と墓地の発見により、事実と確認され、さらに、彼らが直接戦闘に参与した事実も明らかになった」と語った。
北朝鮮のベトナム戦参戦の事実を確認する慰霊塔北朝鮮空軍の墓地は、ハノイから北東に60km離れたbac giang地方のラン・ジアン県タンタン村にある。
67年の米軍のハイボン港空襲に対抗して参戦していた北朝鮮空軍は、李チャンイル、朴ドンジュン等の操縦士11名と整備士3名で、彼らは、直接米軍と戦闘したと、現地住民は証言した。
彼らは、全員、米軍の北爆が本格的に実施されていた67年5月1日に死亡したと、碑文に刻まれている。
総面積3千平方メートルの広い大地の上に造成された北朝鮮軍の墓地は、直ぐ側の共同墓地とは異なり、四方が白い壁で覆われており、正門の正面には、「戦没将兵よ、永遠に」と赤い字で刻まれた高さ10mの慰霊塔が威厳を見せて立っている。
慰霊塔の後ろには、2列に並んだ戦死者の墓14基が整然と作られており、碑文には、前面にベトナム語、後面にハングルで死亡者を「烈士」と表現した名前と出生地、生年月日、死亡日が赤い字ではっきり刻まれている。
この村の村長、ドン・バン・チョウ氏は、この墓地が北朝鮮軍人が死亡した年である67年、現地ラン・ジアン県により作られ、毎年、南ベトナム解放日である4月30日には、北朝鮮大使館から訪ねてきて、参拝すると語った。
自身も、ベトナム軍准尉として中隊長を担任し、戦争に参与したチョウ氏は、「この地域が彼らの死亡と直接関係があるのではなく、北朝鮮のある関係者が偶然ここを訪れ、日当たりが良く、明堂だと指摘して、墓所を作らせ、彼らは、操縦士と飛行機整備士として直接米軍の北爆に対応して戦った」と語った。
墓所管理は、マイ老婦が担当しているが、この老婦は、政府から支援される若干の管理費を受けていると語った。
■李哲秀少佐の証言
96年にミグに乗って帰順した北朝鮮空軍出身の李哲秀空軍少佐によれば、北朝鮮は、67年から72年まで約800余名の空軍操縦士を1個連隊(70名)ずつ6ヶ月単位でベトナムに派遣、ロシアが提供したミグ17とミグ21により米空軍と戦闘に入った。当時、ベトナム戦で死亡した北朝鮮空軍操縦士の数は、80余名で、米軍の飛行機も100余機撃墜する戦果を挙げたと北朝鮮空軍内では知られている。特に、69年5月28日には、北朝鮮空軍が待ち伏せ作戦を行い、ミグ17、8機により米空軍のF-105、12機を撃墜する大成果を上げ、北朝鮮の谷山飛行場駐屯部隊が『528連隊』と命名された。
また、73年10月の第4次中東戦にも北朝鮮空軍1個大隊(30名)が参戦し、イスラエルと戦った。当時の北朝鮮空軍操縦士は、留学生の身分に偽装してモスクワに行った後、飛行機でエジプトに派遣された。中東戦において犠牲となった北朝鮮空軍の操縦士は20名程度であり、北朝鮮は参戦の代価に石油を提供されたという。
最終更新日:2003/05/22